私は農業高校に行き、先ず、百姓になるには、体力が必要と思い
柔道部に入りました。勉強には、あまり力が入らず興味もあまり、
もてず、かと言って柔道も当時重量制も無く、なかなか、強くなれなくて・・・・
でも、気を取り直し、上達するには、辛抱が必要、続ける事にしました。
で、二学年になって、一年生が入部して来ると、一年生には負けたくない
気持ちで、やりましたが、なかなか思うようにいかなく、気持ちもぱっと
しません。でも気を取り直したのは、私が農業を選択したことで、
体力は絶対に必要だと思い、頑張ることにしました。
三年の時十一月に柔道の昇段審査会があり、小グループに分かれ、三回の試合を
して、二勝一分けで初段に合格して技は、返し技一本と、小内刈りの技有り、引き分け、
で無事初段に合格しました。私にとって二回目の挑戦でした。
この初段は非常に意味があり、私が一人前の男(勝手な思い込み)になった喜びで
一杯でした。この当時体格が良く運動神経も、良ければ三年生迄、一生懸命
練習すれば卒業の年、三月には二段は取っていました。
まあ、私が卒業してもやはり体力が必要なので、町に柔道連盟がありそこで又夜
趣味で通っていました。でも私の柔道は、農業をやる為の柔道で、仕事が優先でした。
柔道仲間で会社勤めの勤務時間8時から5時までの仕事は(会社員)羨ましかったです。
忙しい時は、農業を優先でしたから、それがある時自分にとって逃げ道でもありました。
その当時35年頃、水田面積は1.9ヘクタール(1町、9反)でした。
農村でも、長男が殆ど会社員など勤め人が主で、先だ親が働ける年ですので、
兼業が成り立ったのです。そのうち何年かすると、肥育牛の多頭肥育が農協で奨められ
黒牛を30頭、飼いました。この時農協が農家に貸付けをして、農家が赤字を出し、
テレビでも話題になったのです。
あとで無謀な挑戦と反省しましたが、でも運が良いのか
辛抱して10年位経った時相場が良くなって大赤字に成らなくて終ることができました。
それから、40年頃から兼業農家は親の年代が高く無理になり離農する農家が多くなり、
身近な所では、積極的に請負耕作をし、面積を増やして行きました。それは40年以降で、
離農が増えたのです。私もそれに合わせて、田んぼの委託面積を増やしていったのです。
その後機械(120馬力のトラクター)と(自然通風乾燥施設)導入に合わせて平成6年の年、大借金をしたのです。
買った農地が、たまたま農地収用になり、お金も入った事もあり、基盤づくりで
作業所等今の農業の仕事に役立っています。
今でも借金がギリギリですけれども、頑張りきれるかなと思っています。
S35年頃から(私が高校卒業の年)そんな頃から農薬使用が、農業技術の中心になり
農薬が、無ければ、農業が出来ないような指導で農協の技術員が定期的に農薬技術のマニュアルで環境も健康も無視した、私にとっては一方的な指導に思えたのです。
その指導会に、村の公民館を会場に農協の指導員がやってくるのです。
村の50台前後の兼業農家の主婦は、まったく指導員の言いなりに、まるでロボットの
ように忠実に熱心にそのマニュアルを実行していったのです。
農家にはそれなりの打算もあり、農薬の、おかげで労働の手間も省ける、
メリットもあったのです。農家の主婦にとって労働の軽減は魅力だったと思います。
農薬の危険性を、思う人は、居ないも同然、まったく指導員の言うままでした。
まったく自分の生き方、意思の無い世界のように私には思えたのです。
でも考えてみると、その当時は高度成長まっさかり、テレビで見た、高度経済成長の
裏側そのものの世界、いったん決まった事に、まっしぐら、良くても悪くても、
かね、になれば、まっしぐら(都会)が、表、なら(村社会)は、裏、この思考がまったく同じ世界、今この文章を書きながら気が付きました。